5  山吹玉川の景色 挿け方
 この玉川は、山城の国の井手(現在の京都府綴喜郡井手町)にある、木津川に流れ込む小川のことである。奈良時代、この井手の地は橘諸兄の管轄地で別荘があった。そして諸兄は井手の左大臣と呼ばれていた。この井手の玉川は、どうしたわけか水量が乏しく、そのため水無川とも呼ばれていた。そこで諸兄は井手の玉川から庭に水を引き入れて、一面に山吹を植えた。それが玉川をはじめ、井手の邑に咲き誇るようになったので、いつしか山吹は井手の枕詞となり、多くの歌に詠われたものである。また、藤原俊成が新古今集で詠んだ「駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井手の玉川」という歌が有名である。   
 山吹玉川の景色は、この美しく流れる玉川に咲く山吹の情景を、広口に移しとったものである。水を現す黒の石と、陸を現す白の石を使い、流れの急な小川を表現するために、川を表現する黒の石は斜めに取る。そして、蛇籠(じゃかご)を二つ三つ用いて花を留める。蛇籠とは、丸く細長く粗く編んだ籠の中に、砕いた石などを詰めて、河川の護岸や水を防ぐものとして使われるものである。花留としての蛇籠は、中に砂や石を詰めて花を留めて使う。この花留の蛇籠の寸法は、長さ九寸・差し渡し三寸六分の大きいもの、長さ八寸・差し渡し二寸八分の中のもの、また長さ七寸二分・差し渡し二寸四分の小さなものと三種類あり、それぞれ広口に合わせて用いる。
 山吹の花は、立姿と横姿を二株・三株・五株と広口の大きさに准じて挿けていく。立姿の主株は広口の定法のところ、すなわち天地人の天石に位置するところに挿ける。また一方、横姿の株は人石に位置するところに挿ける。この山吹は、枝が横に広がる出生をもつ。そこで、立姿として程よい山吹の枝を見立て、自然の枝を生かしながら風流に挿けることが大切である。玉川の水の流れに咲く山吹の美しさを愛すこころでもって挿けるものである。また水揚げの悪い山吹を挿けるにあたって、その根元にアルカリ性のみょうばんを擦りつけたり、酸性の酒に浸す等すると水揚げの効果がある。
 この井出の玉川をはじめとして、歌枕としてよく詠まれる玉川には六つあり、あわせて六玉川とされている。三島の玉川・井出の玉川・野田の玉川・野路の玉川・調布の玉川・高野の玉川の六つで、それぞれの玉川の特徴を現した和歌や浮世絵がある。以下に詳細を述べる。
 三島の玉川は、摂津国の玉川、現在の大阪府摂津市三島にある川で、別名「砧の玉川」と呼ばれている。「砧」とは布を柔らかくするときに使う木の台の事であり、浮世絵として、河畔で砧をうつ女性などが描かれている。また「見渡せば 浪の柵 かけてけり 卯の花咲ける 玉川の里」(後拾遺集)、「松の風 音だに秋は 寂しきに 衣うつなり 玉川の里」(千載集・源俊頼)のように、卯の花や衣を打つ様子が詠まれた歌が多く残っている。
 井出の玉川は先ほども述べたが、山城の国の玉川、現在の京都府綴喜郡井出町を流れる川である。山吹の名所であり、浮世絵にも、山吹の咲く浅流を乗馬する様子などが描かれた。「駒とめて なほ水飼はむ 山吹の 花の露添ふ 井出の玉川」(新古今集・藤原俊成)「かはづなく 井出の山吹 ちりにけり 花のさかりに あはましものを」(古今集・読人不知)の歌などが詠まれている。
 野田の玉川は、陸前国の玉川、現在の宮城県宮城郡母子川の末流で、別名「千鳥の玉川」と呼ばれている。砂浜を飛ぶ千鳥の群れなどが浮世絵に描かれている。「夕されば 潮風こして みちのくの 野田の玉川 千鳥鳴くなり」(新古今集・能因法師)と、絵と同様に、千鳥や潮風がよく詠まれた。
 野路の玉川は、近江国の玉川、現在の滋賀県草津市野路にあり、琵琶湖にそそぐ小川で、別名「萩の玉川」と呼ばれ旅人たちの憩いの場だったと言われている。萩の花の咲く川に、月を投影した様子などが浮世絵に描かれた。「明日も来む 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月宿りけり」(千載集・藤原俊成)など、萩の花を詠んだ歌が多い。
 調布の玉川は、武蔵国の玉川、現在の東京都調布市の多摩川である。綿織物の名産地で、女性が河畔で布さらしをしている様子などがよく描かれている。「たづくりや さらす垣根の 朝露を つらぬきとめぬ 玉川の里」(拾遺愚草・藤原定家)「多摩河に 晒す手作り さらさらに 何ぞこの子の ここだかなしき」(万葉集・東歌)等の歌が詠まれた。この歌の中の「手作り(たづくり)」とは、綿で織った布のことで、それを川にさらしている様子が詠まれたものが多い。
 高野の玉川は、紀伊国の多摩川、現在の和歌山県奥院大使廟畔の小流である。また、死者生前の罪業を払う、流れ灌頂が行われる川である。浮世絵としては高野山中の渓流などが描かれている。また「わすれても 汲みやしつらむ 旅人の 高野の奥の 玉川の水」(風雅集・伝弘法大師)の歌が詠まれている。